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できるところから一つずつ

できるところから一つずつ

バンクーバー短歌会へ

2019 12

バンクーバー短歌勉強会の解散にあたって         佐藤紀子

「うた新聞」(いりの舎)11月号の「今月のうたびと」欄に、
惑星の楕円軌道の重なりの一夜集ひてまた離りゆく (松尾祥子)
を見つけた。
「一夜限りの集いを『惑星の楕円軌道の重なり』と例えたところがいい。日々の生活のリズムは人それぞれだが、その日々を、惑星の軌道に置き換える発想は相当面白い」との推薦者のコメントに同意しつつ、何度も読んだ。
 作者はこの場合、「一夜の集ひ」のことを詠んではいるが、たとえば、この13年間指導にあたってくださっていたバンクーバー短歌会のことにあてはめても、この一首は解釈できそうだ。
 会員達は、それぞれ二つの焦点を持つ楕円の軌道を持ちながら、毎月の短歌会に集まり、短歌の話をし、そしてまた離れて、それぞれの歌を詠み、次の短歌会に軌道がかさなるように調整しつつ戻ってくる。それが410回しか・・・ではなくて、410回も繰り返されたと思って、残念な閉会も、壮大な気分で受け止めよう。
この短歌会が存在した33年の間には、ざっと数えて延べ50個近い楕円軌道の惑星が存在したが、あるは、焦点の遠心力を強く受けて、楕円軌道を放物線に変えて広い宇宙に旅立ったり、あるは引力にまけて太陽に接近しすぎたりして、ひたすらに楕円軌道を守っている惑星が減ってしまった時を解散のタイミングとみた判断は、正しいと思いたい。
会が発足したての頃から約20年の間、指導にあたってくださった鈴木英夫先生の
過ぎゆきて時間は厚き層をなす戦争もまた旅の彼の日も(鈴木英夫「菩提樹」)
をここに引用して、メンバーそれぞれの上に、短歌会で歌を詠んだ時間が、一つの層をなし、また今後そこに、さらなる新しい層ができて、人生が豊かになっていくことを祈りながら、惜別の言葉にさせていただく。




短歌雑感 (2019 03)

最近、頭の奥で、いつもちらちらしているのが以下の一首です。

疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ 八十年生きれば そりゃああなた (斎藤史 『秋天瑠璃』)

この歌集が発行されたのは、1993年。 当時は、その奔放な下の句で、話題の一首でしたが、いつの間にか、25年も前のことになり、読者としての私の年齢も、53歳から78歳になってしまいました。

53歳の私は、80歳にもなったお年寄り歌人が、このように、奔放な歌を詠まれたのに感動しました。 特に下の句は、この口語調のよびかけのなかに、ユーモラスなところまで感じ、
激しい痛みであっただろうに、こういう述べ方で受け入れるあたり、さすがに、数々の苦難を切り抜けて来た歌人の歌だと感心しました。 でも、それはあくまでも、「ご高齢になると、大変なのねえ。お察しするわ」というような、感慨でした。

が、最近、自分が80歳に近づいてくると、この結句が、にわかに、自分のこととして身近になってきました。 こう言いきかせることによって、無理に自分を納得させて、前向きに生きようとしている、斎藤史さんのご自分にたいする応援句のように感じられて、やっと歌意が理解できてきたような気がします。

「同じ短歌でも、鑑賞者のアンテナによって、ちがった受け取り方をされる」と、よく言われますが、本当にそういうことなのだろうと、最近、実感しています。

「老い」の歌など、理解できない方が、仕合せですよね。





☆ コスモス 1992年6月号  支部報よりの抜粋

「紫野 第一号」以降の歩み

 初めての試みとして「紫野 第一号」を手探り状態で発行したのは、一九八八年十月であった。『宮柊二集』の表紙の色とよく似た色の表紙を採用していた偶然の一致が、今にしてみると嬉しい。
 その一冊だけで終わらせたくないという願望から、その時敢えて「第一号」と付け加えたのではあったが、中々その態勢が整わないまま今日に至ってしまった。今回、ここに「第二号」を出すことが出来るのは、とても有り難いことである。
 「第一号」以来の出来事で、何といっても一番大きいのは、一九八九年七月、鈴木英夫先生がお出くださったことである。あまりにも素晴らしいことだったので、鈴木先生が、華やかな笑顔の奥様と飛行場のゲートを出ていらっしゃってからやっと、「本当にあの鈴木先生が遥々といらしてくださったのだ」と実感した会員も多かったようだ。その時の歌会では一人一首を提出し、皆の考えを出しあった後に、先生からのご講評を戴く形式をとった後に、先生は私達の疑問ひとつひとつに丁寧にお答え下さり、今後に応用できるお話も、それに関連させて沢山聞かせて下さった。又、「そこはこういう言い方をすると解決するんだよ」と仰って出して下さる案に、急に生き生きとしてくる歌の数々を見て、推敲とはこういうものを言うのかと、まるで魔法を見ているような気がした。その年のコスモス十一月号にのった菅原美知子さんの
 四苦八苦悩みし歌も鈴木先生の添削により突如きらめく
は、私達共通の気持ちだったと思う。その会の録音テープを、私は折り有る度に聞き直しているが、その都度何かハッと学ぶところがある。これからも、私達が勉強を続けるうえで大切な指針となるに違いない。
 一九八九年早々に、私達の会は、これまで何くれとなくお心を尽くしてくださったジョンソンみどりさんに感謝しつつ、コスモス「北米ロッキー勉強会」の傘下から離れた。といっても短歌に関する姿勢は取り立てて変わるべくもなく、毎月一度の歌会で顔を会わすと、大真面目に取り組んでいた筈の歌評がいつの間にか料理の話になっていたりする欠点(楽しさ)をも含めて、互いに互いを支えあってきた次第である。事実、「もし、一人だけでやっていたら、とっくに何回も欠詠していたに違いないし、ひょっとすると、もう歌を止めていたかもしれない。」とは誰からも一度は聞いた言葉である。
 そして、九十一年十月から、私達の会はコスモスの「バンクーバー勉強会」として出発出来ることになった。コスモスに入っていないメンバーの方々にもご賛同戴けたので、今後、この方向で勉強を続けていきたい。(後略)
    (バンク―バー勉強会 「紫野」二号)


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